なんであなたは、そんなに英語ディベートにこだわってるの?
二つの理由
自分が英語ディベートに関わり続けている理由は、大きく二つあります。
一つは、英語教育に関わる理由です。
生徒には、ただ「自分の意見を英語で言える」だけではなく、人の話を聞いて、それについて考え、答えて、さらに話を続けられるようになってほしいと思っています。
英語ディベートでは、自分とは違う意見を聞き、それに答えなければなりません。社会で起きていることについて考え、一定のルールのもとで意見を交わします。
英語を学ぶことと、人の話を聞き、自分で考え、人と話すこと。その二つを同時にできる。そこに、自分は英語ディベートの教育的な価値があると考えています。
ただ、それだけなら、ここまで長く英語ディベートに関わってはいなかったはずです。
もう一つは、自分自身が英語ディベートから得たものを、次の世代にも渡したいという、かなり個人的な理由です。
教室と図書館と住んでいる場所
自分はもともと本を読むのが好きでした。
大学を選んだ理由の一つも図書館でした。日本語の本と英語の本がだいたい一対一くらいの割合で所蔵されていて、大学に入ったら、そこで英語の本をたくさん読みたいと思っていました。
入学してからは、その大学図書館でアルバイトもしました。本棚を整頓したり、カウンターで貸し出しや返却をしたりする仕事です。本を読むのが好きだった自分にとって、英語の本に囲まれて働けるのは、かなり幸せな環境でした。
大学生活の最初の頃は、授業を受ける教室と、大学図書館と、住んでいる場所。その三つをぐるぐる回っているような生活でした。
人と話すことや、大きな集団の中に入ることも得意ではありませんでした。
そこには、祖母から聞いて育った戦争の話も、少し影響していたのだと思います。祖母は旧満州からの引き揚げを経験し、弟をフィリピンの戦地で亡くしました。遺骨も戻りませんでした。
その祖母の弟は、徴兵される前、三鷹にあった航空関係の研究施設で技師として働いていたそうです。その跡地には、戦後、自分が通うことになる大学ができました。祖母が初めて大学のキャンパスを訪れたとき、かつて弟が働いていた場所を歩きながら、感慨深そうにしていたのを覚えています。
そうした話を聞いて育ったこともあり、自分には、人間は集団になると、時にろくでもないことをするものではないか、と考えるところがありました。
それほど大げさな話でなくても、そもそも人付き合いの多い生活があまり好きではありませんでした。
自分が大学1年生だった2000年代初頭は、今とは少し時代が違っていて、英語の先生が学期の途中に語学クラスの1年生を飲み屋に連れていく、なんてことも普通にありました。
周りは楽しそうでしたが、自分にはあまり楽しくありませんでした。飲み会に行くくらいなら、一人で本を読んでいたいと思っていました。
せっかくキリスト教系の大学なんだから、Prohibition(禁酒法)でも復活してくれないかな、などと思ったりもしていました。
だから、教室と図書館と住んでいる場所をぐるぐる回る生活は、自分にとってそれほど悪いものではありませんでした。
英語ディベートとの出会い
そんな中、授業を通して、自分と少し似た雰囲気の知り合いができました。
その人が出場するというので見に行ったのが、学部2年生の10月に行われた ESUJ の英語ディベート大会でした。
そこから数か月して、今度は学部1年生のときに同じ語学クラスだった人を通して、英語ディベートの練習に顔を出すようになりました。
自分にとって英語ディベートとの出会いは、そんな偶然の連続でした。
それまで教室と図書館と住んでいる場所の三角形をぐるぐる回っていた自分の大学生活に、もう一つ、「人と集まって何かをする場所」が加わりました。
ディベートは、そんなに上手ではなかった
自分は、英語ディベートが特別に上手だったわけではありません。
本格的に部活動に参加したのも遅く、選手として華々しい成績を残したわけでもありません。大会ではジャッジをすることも多くありました。それでも練習を続け、特に Whip Speaker(味方の議論全体を整理して締めくくる役割)として、少しずつスピーチができるようになりました。
でも、自分にとってもっと大きかったのは、ディベートそのものの上達ではありませんでした。
定期的に集まる場所がある。先輩や同期、後輩がいる。一緒に練習して、世の中で起きていることについて話をする。
それまで一人で本を読んでいることの多かった自分にも、友人ができました。
そこで初めて、「部活動というものは、こういうものなのか」と知ったのだと思います。
人が集まることをどこか警戒していた自分が、「人が集まることで、こんなこともできるのか」と思うようにもなりました。
英語ディベートでは、みんなが同じ考えになる必要はありません。
むしろ、違う考えがあることを前提にして、相手の話を聞き、それに答え、一定のルールの中で言葉を交わします。
自分にとって英語ディベートは、英語や議論の技術を学ぶ活動であると同時に、「人と一緒に何かをする」ということへの見方を変えてくれた活動でもありました。
一人で本を読んでいるのは、今でも好きです。でも英語ディベートを通して、人と集まって何かをすることにも、それまで知らなかった面白さがあると知りました。
先輩に褒めてもらいたかった
大学を卒業した後も、英語ディベートに関わり続けました。
最初の頃の理由は、それほど立派なものではなかった気もします。大学時代の先輩たちに、褒めてもらいたかったのだと思います。
「こよっしーくんは、英語ディベートは下手だけど、それ以外では頑張ってるねえ」
そんなふうに言ってもらえたらうれしい、という気持ちがどこかにありました。
大会を運営したり、教材を作ったり、後輩に教えたり、学校でディベートを広めたりする。そういうことを続けていた理由の一部には、昔一緒に活動した人たちに認めてもらいたい、という単純な気持ちもあったはずです。
でも、年月がたち、当時一緒に英語ディベートをしていた先輩や同期の多くは、もうディベートから離れました。
今も続けている人が、あと一人います。その人も少し変わったきっかけで英語ディベートを始めた人です。
大学の水泳の授業で、水深1メートルほどのプールなのになぜか溺れそうになり、たまたま英語ディベート部の部員に助けてもらった。それが縁で、英語ディベート部に顔を出すようになったそうです。
自分とはまったく違うきっかけですが、考えてみれば、自分も知り合いが大会に出るのを見に行ったことから始まりました。
英語ディベートを始める理由なんて、案外そんな偶然でいいのかもしれません。
そして、自分もまだ続けています。
勝つことより、残ったもの
以前、自分が書いた英語ディベートの教材 Book 2 で、大会に出場して、結果が残念だったとしても、
金メッキのトロフィーよりも、もっと大切なものを仲間から貰えるはずです
と書きました。
今でも、その考えはあまり変わっていません。
もちろん、大会に出るなら勝ちたいです。生徒が大会で結果を出せば、うれしいです。
ただ、高校生の大会に長く関わり、「優勝おめでとう」と言うことを何年も繰り返しているうちに、それだけではもういいかな、と思うようにもなりました。
大会で結果を出すことだけが、部活動ではありません。
定期的に集まって、みんなでわいわい練習する。英語が少しずつ上手になる。社会で起きていることについて話し、それまで知らなかったことを知る。自分の意見を言って、相手の意見を聞く。
先輩の姿を見て、自分の進路や将来について考えることもある。そして、友人ができる。
自分自身が英語ディベートからもらったのは、そういうものでした。
英語ディベートを、一部の人だけのものにしたくない
だから今は、大会で優勝する生徒を増やすこと以上に、英語ディベートをやってみる人そのものを増やしたいと思っています。
長く活動している学校には、過去の論題、議論、教材、練習方法などが内部に蓄積されていきます。それは、その学校が長年活動してきた結果です。
ただ、それによって、特定の学校だけが英語ディベートを続け、新しく始める学校はなかなか入っていけない、という活動にはなってほしくありません。
いつしか、限られた学校の生徒だけが英語ディベートをするようになってしまったら、自分がやりたいこととは違います。
大会で勝てなくてもいい。
人前で話すことが得意でなくてもいい。気が小さくてもいい。大勢で騒ぐことが好きでなくてもいい。一人で本を読んでいる方が好きでもいい。
英語が特別に上手でなくても、最初からディベートが上手でなくてもいい。
週に一度でも集まって、英語で話してみる。世の中で起きていることについて考えてみる。自分とは違う意見を聞いて、それに答えてみる。
そして、同じことをする人たちと顔を合わせているうちに、そこが自分にとって大切な場所になることもあります。
自分自身が、英語ディベートからそういう場所をもらいました。
だから今度は、かつての自分のような中高生や大学生にも、そういう場所を少しでも増やしたいと思っています。
そのために、このサイトでは、自分がこれまで作ってきた教材や練習方法を、できるだけ多くの人が使える形で公開しています。
学校に十分な教材や指導者がいなくても、英語ディベートを始められる。大会で勝つためだけではなく、英語を使い、世の中について考え、人と話すためにディベートを続けられる。
そういう環境を少しでも増やしたいと思っています。
最初に書いた英語教育の理由と、この個人的な理由。振り返ってみると、その二つは自分の中でつながっています。
たぶん、それが、自分が今も英語ディベートにこだわり、「英語ディベートの教室」というサイトを作っている理由です。